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光のマリア 学問を創った人々 宗教学

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Page 1: 光のマリア…‰のマリア.pdfSanta Gadea (Burgos), 1399 • 目撃者は羊飼いの息子、PedroとJuan。舞台はカスティリア、Burgos のSanta Gadea del Cidの街近く。1399年3月25日火曜日、Pedroと

光のマリア学問を創った人々 宗教学

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梅の塵

• 1803年、3月24日。今の、茨城県の海岸に、何とも奇妙な形の船が流れ着き、調べてみると、誰も見たことがないようなおかしな服装の女が一人乗っていたと言います…

• このことは、天保年間、江戸で出版された『梅の塵』という本に記録され、挿絵には、まるで空飛ぶ円盤のような形の船が書いてあります…

• その船は何だったのか…•宇宙船だったのでしょうか。それとも…

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スペイン異端審問

•異端(heresy)は正統(legitimacy)の動的な対概念

• 「正統は私の意見であり、異端は他人の意見だ」という表現にも端的に現れているように、異端論争には主観主義的な要素が含まれる傾向がある

• なまじほとんど同じ信仰だけに、時に異教徒(heathen)よりも憎まれることが多い

• イベリア半島はレコンキスタによりキリスト教国家の国土となってきたが、未だ南部を中心にイスラム教徒たちも暮らしていた

• フェルナンド2世は異端審問のシステムを教皇庁に願い出て自国独自のものとして取り入れた

•悪名高きスペイン異端審問は、ユダヤ人を始め多くの人を拷問の中葬り去った

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Jaen, 1430• 証言者はカスティリアの街Jaenに住む羊飼いの息子であるPedroと友人の

Juan、羊飼いの妻のMaria SanchezとJuana Fernandezである。彼らは別々の場所で同じものを目撃している。

1430年の6月10日の深夜、San Ildefonsoの教会の近くで、彼らは相次いで光の行列を外の街路に見た。まず、おもての強い光で家の中が昼のように照らされ、多くの犬が吠えるのが聞かれた。何事かと彼らはあるいはドアを開け、あるいは窓から外を覗いた。そこには光あふれる一人の女性を中心とした行進があった。

まず五つ(あるいは七つ)の十字架が進み、その後、周りの者より遥かに背の高い女性が続いた。この女性は白い服に身を包み、長い裾を引きずった白いマントを着、右手には一歳ぐらいの赤子を抱いていた。頭には何か白いもの(冠かオーラ)が見られ、全身が陽の光のようにまぶしく(まるで銀の聖像であるかのように)輝いていた。

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• その後には十人の司祭達が祈りながら歩いて続いたが、そのしゃべる言葉は一言もわからなかった。さらにそのうしろから、百人ほどの白い服を着た兵士達が進んだ。武器をがちゃがちゃさせ、槍を持っているようであった。その後、かの女性を中心に人々は座り、(この世のものとは思われぬ)歌を歌い始めた。何を歌っているのか、その言葉もわからなかった。

・この話は四人の証言を総合した結果得られた。四人は証言の前に口裏を合わせたことはない。

・彼らの証言は概ね一致しているが、微妙な食い違いも見られる。最も大きな違いは、目撃者のうちMariaのみが背の高い女性を聖母マリアであると認識し、また彼女のみがその女性の脇に聖イルデフォンソを見ているというところにある。

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•彼らは行進を見たときの感情を、歓びに満ちたものだったと証言したが、同時に恐ろしさも感じていた。

Pedroはその歓びについて次のように語っている。この地方では夜になると、城郭の外のすべての人々はムーア人を怖がる。彼が行進の人々、十字架を見たときに感じたのは安心である。それは、この人達がムーア人から安全ならば、皆安全なはずだという気持ちであった。だが彼はまた、行列の後ろの兵士達を見たときに恐れと不安が湧いてきたとも言っている。

ムーア人(英: Moors)は、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称。主にベルベル人を指して用いられる

レコンキスタ(複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)が終わりを迎えるのは1492年である

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Santa Gadea (Burgos), 1399•目撃者は羊飼いの息子、PedroとJuan。舞台はカスティリア、BurgosのSanta Gadea del Cidの街近く。1399年3月25日火曜日、PedroとJuanは羊を世話しているうちに蜜蜂の巣がある木を見つけた。その晩遅く、彼らは蜜と蝋を集めるためにその場所に戻り、そこで一人の輝く女性と行列を見た。白い服を着た人々が大きなサンザシの木の周りに集っていた。そしてその木の頂に、太陽よりも明るく光り輝く女性が一人立っていた。彼らはその光景を理解することができず、逃げ帰った。

3月27日木曜、再びそこに行ったPedroだけがその女性(聖処女マリア)と再び出会う。彼女は前回のヴィジョンを解き明かし、彼に町のための「指示」を授ける。それは次のようなものであった。

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• スペインの崩壊の日、Montanana la Yarmaという町があり、そこに私(マリア)の名で呼ばれる教会があった。異教徒たちの猛攻撃から、その共同墓地にその町の難民達はシェルターを使うことを余儀なくされていた。教会と共同墓地の中で彼らは敵に囲まれ銃火に包まれていた。そして彼らは改宗を肯んじなかったため全てが殉教することになり、輝ける殉教の血の中にすべてはまみれてしまった。(中略)この地が聖なる場であり、殉教によってここに死んでしまった遺体の多くの聖遺物がある場所であることを(街の皆に)説明することを命ずる。また、この秘密の記憶を再び呼び起こすために、聖ベネディクト修道会の修道院と教会が建てられるべきであるとするのが、我が栄光に満ちた息子の意志であるという事を告げることも命ずる。(中略)私のこのサンザシの木のもとへの顕現の記念に、私の顕現の記述を持つ者は誰でも悪魔の力から自由になるようにしよう。そして悪魔は私の紋章を見たときにその者を害することができないようになるのだ。

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• だが怯えたPedroは、街の人たちにマリアのメッセージを伝えることはせずに黙っていた。

そして3月30日日曜日、イースターの日の夜、Pedroの家にマリアが修道僧たちと現れ、彼女のメッセージを送らなかったとPedroを打ち倒した。

Pedroの叫び声に近隣の者たちが目を覚まし、彼の家に駆けつけた。人びとが見たPedroの家は昼のように明るかったが、部屋に駆け上がったときはもとのように暗くなっていた。多くの鞭の痕をその体(ミミズばれと傷)と部屋の床に付け、Pedroはショック状態であったが、彼の親たちは何も知らなかった。

Pedroは街の人々に集会を開催することを懇願し、そこで彼は自分の見た話を語った。数年後そのマリアが現れた場所に修道院が建てられた。そして特にその顕現の日を目指して巡礼達がやってきた。この顕現の最も古い現存の公式文書は1471年以降に作られたものである。

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カスティリアの顕現の背景

• 8世紀、アフリカからのムスリム勢力は急速にイベリア半島を征服していきました。しかし侵攻が止められたところからその後700年にわたり、カスティリア、ナヴァール、アラゴンのキリスト教諸王国は徐々に半島の支配権を回復していきました。そして1400年までにはグラナダ王国のみがムスリムの支配を受けるところまで回復していたのです。

•聖マリアは守護聖人として最も重要な存在で、ヨーロッパにおいては12-3世紀にその聖像の使用が拡がり、だんだん他の殉教者や隠者、聖なる司教の遺体、聖遺物のある癒しの大聖堂のなどのかつて持っていた人気を一人占めするようになっていきました。またそれに伴い、マリアの聖堂は大聖堂や修道院から地方の礼拝堂へと広がり、そこが宗教的祈りの実践の中心地となっていったのです。

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•共同体がその聖者と会うのはほとんどが何らかの危機の時です。しかしその危機の時のつながりは、毎年の暦的信心・祈祷へとしばしば変容します。たとえば町が蝗の接近を怖れるとき、町の人がある聖者に祈り、その「しるし(験)」があったとされればその日が「その聖者の日」になるのです。そうした「聖者の日」には、町の行政によって通常は公会堂で厳粛に祈りが行われ、そしてしばしば公証人によって儀礼の記録が残されました。それによれば、聖者ための行進の行列に家人を出さなかった戸主、あるいは当日働いた者には具体的な罰が与えられています。村人達は教皇庁や教区から命じられた聖祝日に振り替えてでも、ともかくその日を遵守していたのだそうです。

• 「顕現」は新しい聖者をこのシステムに組み込んだり、あるいは古い聖者への信心が復活する一つの道でした。共同体のパンテオンは流動的だったのです。人々はある意味「試行錯誤」して信仰を変えていったようです。

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語られた意味

•初めに現れた白い服を着た人々は天国の天使達であり、太陽よりも明るく光り輝く女性は聖処女マリアだったと認められることになりました。でもここで目撃者の方に目を向けても面白いことがわかります。目撃者の名前が、あのJaenのケースと同じなのです(こちらの事例が先行していますが)。

• そう、この話にはペテロ(Pedro)とヨハネ(Juan)が登場し、ちょうど(キリストの復活へ続く)聖なる週間がなぞられていると捉えることができるのです(→エピファニーの拒絶とそれに続く受容)。この種の変容させられた「まねび」は、多く初期の聖堂伝説に見出されるものです。

• スペイン中世のこうしたドラマの中心、発見される聖像のモティーフ等々は、キリストではなくマリアなのでした。(15世紀、西ヨーロッパから来る巡礼達にもマリア崇拝が生きていました)

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• この話の当時、この地は実際にイスラム勢力に脅かされてはいませんでしたが、人々は顕現の起きたような廃墟と化した教会などに潜む山賊に悩まされていました。また、現に疫病にも苦しんでいたのです。マリアの顕現はこれらの脅威に対抗する力への希求に向けられていました。サンザシは病を癒し、顕現のエピソードは人びとを悪魔から守るものとなったのです。

• さて、Montanana la Yarmaという村が果たして本当にムーア人に制圧されていたか否かはわかりませんが、このような話はサンタ・グデアの人々に、明確に物理的・精神的に指示対象を持ったものだったと思われます。

• それは、マリアのシンボリズムによって「守られてある」ことを確認し、平穏な日々を送ることを保証してくれるエピソードとなっていたのでした

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※エピファニーの拒絶と受容について

• 『マタイによる福音書』17章1~13および『マルコによる福音書』9章2~13、『ルカによる福音書』9章28~36の記述によれば,イエス・キリストは受難の前にペテロ,ヤコブ,ヨハネの 3弟子を連れて高い山に登った。すると見ている間にイエスの「顔は太陽のように輝き,その衣は光のように白くなった」。そしてモーセとエリヤの 2預言者が現れイエスと語った。また天上からは神の声が下った。これはキリストの受難と光栄を並置したエピファニー(顕現)として重要な出来事で,特に東方教会で重視され,十二大祭図の一つとして多くの作例がみられる。弟子たちは通常画面底部に,恐れて転び伏した姿で表される。

•神キリストが現れていることを信じられなかったペテロやヨハネが、後にそれを信じた(受容した)エピソードの模倣ということ